今日はワタクシの経験した
雇用機会均等法前の社会について書かせてください。
読んでいただければ「そうかあ。それなら年金の一部を先に受け取ると言うことも逆差別とは一概に言えないかなあ」と思っていただけるかも……です。
ワタクシは1962年(昭和37年)生まれで、大学を卒業した年はまだ男女雇用機会均等法は施行されていませんでした。
大学入学は1980年、卒業は1984年でした。
当時の社会をふり返ります。
まず、女性の人生というものに明快な「正解」というものがありました。
「多様」がよいもの、という価値観はなかったです。
地下鉄のホームを上から見れば髪の毛は黒黒黒……白髪もあったはずですが、高齢化社会でもなかったんで、ひたすら黒……。
学校で染髪は禁止が普通。
男子全員丸坊主でも何らの違和感も不思議も感じない社会でした。
単一
それが社会というものでした。
で、女性の生き方としての明快な正解は
結婚したら家庭に入る。結婚は25歳までが望ましい
(「クリスマスケーキ」というやつです)。
ワタクシは中学、高校と女子校に行っていたのですが、まず大学受験に関して言うと、
短大が絶対的に就職、結婚に有利
であったため、大部分がその道を選んでいました(私の学校では80%くらいが短大を選択)。
中卒で働いている方も社会に少なくはなく、高卒で働く人も今よりはずっと多く、まあ女性で短大に行かせてもらえるなら、それですでにありがたい感じでしたかね。
ワタクシの学校でトップクラスの成績の学生でも短大を目指すのはもったいないはもったいなかったけど、そんな学生も実際にいた頃です。
で、ワタクシは成績トップクラスとは言い難かったけど、親、特に父親が学歴志向の高い親でして「大学に行け」みたいに言い出しました。
ワタクシは小生意気な子だったし、経済基盤のない母親を見ていてあんな人生は嫌だと思っていたから、「これはチャンスだ!このチャンス逃すまい」と野心たっぷりに大学受験に挑戦することにしました。
で、痩せるほどの猛勉強を経て大学に合格。
当時は「女子大生亡国論(女性が大学に行くと国が亡びる)」という「論」を世に出して、今風の言葉で言えば「炎上」してる教養人がおられたほどです。
ちなみに、我が家の父がワタクシを大学に行かせたがったのは「大学で婿を見つけてほしい」というのが動機の第一だったと思われます。
ワタクシが専攻した学部でこそ男女半々くらいの比率でしたが、大学全体では男8:女2くらいの比率でしたかね。
いやー女子校から共学に進学して、何が困ったってトイレだったよねー。
女子校は当然だけど女子トイレばっかなんですよ。男子トイレは食堂のとこにしかなかったの。あと、先生用のが職員室近くにあったかな。
食堂のとこのは来客用。
それが、大学に行ったら女子トイレが少なすぎてですねえ。いっつも長蛇の列だから授業終わりはダッシュでした。
まあ、そんなこんなで大学生活がもうすぐ終わります。という頃。
生き方が単一だから、大学を卒業したら就職するんですよ、誰彼例外なく、です。
で、我々は戦後の教育ですから、小学校から「男女平等」で育ってきてたんです。
日本国憲法あるじゃないですか「日本は平等ないい社会だ」と信じて育ってきておりました。
それに大学は、大学なんだから、学生は時代を一歩リードする気風があるというか、そういう世の中平等であるべきという雰囲気には満ち満ちておりました。
学生運動も今よりは活発で、なんというか「こんな社会に一発かましてやるぜ」「世の中おかしいこといっぱいあるぜ」みたいな気風です。
大学の就職課に行きます。
そこに山のような人材募集のファイルがあります。
ネット社会じゃないんで、全部紙に書かれた求人票です。マンモス大学だったんで、求人票も山ときていました。
で、その求人票をめくって自分の就職したい会社をピックアップし、求人のスケジュールとか資格とか条件とかを見ていくワケです。
もう一度書きます。
雇用機会均等法施行前
でした。その求人票は……。
女子学生は、その求人票に
「女子可」
という判が押してある会社のみに応募できるのです。
初見で「これは差別だ」とワタクシ、わかりました。
新聞の求人広告もバイト求人も均等法前は男女別が当たり前だったし、女子は大学でも親元から通え、という雰囲気で育っていましたよ……。
そんな社会しか知らんかったけど、「差別」ということはわかりました。
昔、「ワイルド・スワン」という小説で、
作者の過ごした時代の中国で「中国は天国のようによいところだ」というプロパガンダがあった。作者もその家族もまた周囲の人も海外に行ったことはなかった。天国にも行ったことがなかった。世界を知らなかった。
にもかかわらず、作者のいた時代の中国が天国ではないことを皆が知っていた。
というくだりがありました。
ちょうどそれが当時ワタクシが「女子可」の判を見て直感的に感じたことです。同じ感覚です。
平等な社会で生きたことがない。そんな空気を吸ったことがない。
新聞の求人広告も男女別が普通で「男女どっちでもいい」はほぼない。
定年だって女性だけ40歳とか45歳とか男性より早い企業はごまんとある。
(これが、今年金支給が女性だけ早くても不思議に思わないワタクシの理由の一つ)
例え定年が同じ年齢だとしたって結婚したら辞めるのが一般的だから、結婚出産経て勤める人は例外的な優秀な人、あるいは特別な人。
大学も女子の私は親元から通う、が条件だったけど、一歳下の弟は大学は上京して下宿、親からも仕送り。
そんな環境で育ったんだけど「女子可」の判は差別だとわかりました。
誰にも何の抗議もしませんでした。
ただ「これから出てく社会の厚い壁」を知った瞬間でした。
まあでも、今はそれもいい経験の一つだったとは考えています。
昔アメリカでバスに黒人専用というのがあって、皮膚の色で「白人専用バス」に乗ってはいけない、という時代があった。
ワタクシが見た「女子可」の判はちょうど、「女子が乗ってもいいバス」と「乗ってはいけないバス」が分けられているのと同じでした。
そんなこと、今から振り返るとちょっとビックリするようなことですね。
でも、もう一度書きますが、意外にも自分自身「世の中こんなものなんだ」と思っていました。
結婚しても出産しても仕事続けるぞ! と威勢のいいことを胸に抱いていましたが、一方で
結婚したらどんな苗字に自分はなるんだろう……?
と、ときめく感情を持っていたし、「女子可」の判を見ても
「こんなの差別ですから即刻止めてください」と就職課に抗議にも行かなかったし、どう説明したらわかってもらえるかな……?
「そうじゃない世の中」を体験したことがなかった。
それに尽きますかね……。
あーこれからそんな社会で生きていくんだ。この壁を自分は突き破っていくんだ。
という意気込みもありつつ……。
まあとにかく
均等法施行前
はそんな環境でした。
仔羊おばさん