国連がです。
あの国連様がです。
日本政府に勧告をなさったとのこと。
「障害のある子供にインクルーシブ教育の権利を」
そのニュースを聞いた時には、えーでもそしたら学校の先生の負担はますます増しちゃうじゃないか……。
と、ワタクシは瞬間的に思ったのです。
いや待てしかし。
ワタクシは高校時代「点字部」という部活で点訳活動をしていた。で、点字のしくみを知っている。今もエレベーターなどに点字があると、「これは数字だ」とかくらいはわかる。
また、部活の先生が盲学校の見学にも連れて行ってくれて、「体育の授業ってこうやってやるんだ」とか「一口に見えないといっても、実は少々は見えてる子もいるんだ」とかを知ることができた、ということに思い至った。
やはり何らかの接点を持ち続けていくことこそが大事なんじゃないか、と考えた次第です。
車いすを押したことのない私は、車いすを見てもしり込みするだけ。
障がい者と日常的に接していないため、どうすれば安心感持ってもらえるかとか想像する事すらできない。
だけど、外国人と接し慣れてる私は、どんな語彙で初級の学習者と話したらいいかとか熟知している。
「すごいな、私。こんな日本語のできない人と日本語で1時間以上も話ができるなんて。」と感動したりする。
いやほんま、ちょっとしたコツなんです。
例えば、外国語で話してる相手が言葉を思い出す時間的な余裕をあげる。相手が言葉を見つけるのを待つ。
オノマトペはかえってわかりにくいから使わない、とか。
日本語クラスの初級で習う言葉を知っていると、それだけで会話が成り立ったりする。
教育は次の50年、100年を作っていく基礎になるものだから、共生社会形成にはやはりインクルーシブ教育はカギになると思います。
ただ、ワタクシが夢見るインクルーシブ教育は、国連が言っているものとも少し異なります。
いっしょにやる授業も別々にやる授業も両方あるイメージですかね。
同じ敷地内に普通教育の学校も支援学校も盲学校もろう学校も併設、とか考えました。
芸能クラスとか体育系のクラスとか持ってる学校もあるでしょう?
だから「学校併設」というと大げさなんだけど、校内にいろんなクラスがあるイメージですね。
ただ、一朝一夕にはできないことなんで、50年100年かけてそういうシステムや学校をととのえていくようなビジョンです。
(-ω-)/
やはり必要な専門的なサポートは受けられるようにすることは大事だと思う。
障がい者本人にとってプラスに働く限りは専門的なアプローチは残すべきだし。
そして、「支援が必要な学生にその支援が提供される」ということは同時に、
「いわゆるできる子にはできる子にふさわしい教育が提供されること」を意味すると考えています。
彼らには彼らで特別な配慮を受ける権利があるはずです。
話は変わりますが、東京パラリンピックを見て、発見がありました。
パラリンピックでメダルを取る選手などは、ものすごく強靭なフィジカルを持っていますね。
「足がない、あるいは健常者のような足をしていない」それだけでオフィスで車いす移動をしている人がほとんどだと思いますが、でも、もし「彼らが移動しやすいオフィスを開発したら?」
もしかしたら畳敷きみたいな床を這って進んでもいいオフィスを開発したら?
あのフィジカルを持ってすればかなりの高速で移動しそうです。
「オフィスとはこんなもの」「教室はこんなもの」と先入観で物事を見ていますが、多様な人の多様なニーズを考えていけば、デザインの世界にもまた別のブレイクスルーが起きるかも、と妄想が膨らみました。
(・∀・)
あと、インクルーシブ教育のデメリットとして「実体験に基づく障がい者嫌悪の感情」を持たせてしまうのではないか、というのを読みました。
ワタクシは、それについてあまり心配はしていません。
私は日本語学校の教師として中国人、韓国人やベトナム人とお腹いっぱいになるほど付き合ってきました。
「実体験に基づく嫌悪感」なら、実際、外国人に対してワタクシも持っています。
いわゆる「○○人」のステレオタイプみたいなもんはあって、疲れているとそういうのと付き合うのはうんざりするんですよね。あと「仕事に関する精度」や「仕事に対する忠誠心」悪い言い方で言えば「仕事中毒度」なんかは日本人が概して勝つ分野ですよね(韓国人除く)。
なので実体験に基づき、私は総じて日本人以外の仕事について信頼感イマイチです。
でも、それって彼らもそうで、日本製品や日本のサービスに対する揺らぎのない信頼を日本に寄せていますもん。
とことん付き合ったから
自己主張しない奥ゆかしい中国人(あの国でどうやって育てたらあの人格が育つのか不思議でならん)に出会ったこともあるし、攻撃的でない韓国人も知っている。
ワタクシが言いたいのは、私には彼らは
「人間」
に見えているのです。
そのことこそが重要なんだと思います。「嫌悪感」結構じゃないですか。
付き合った経験がなければ、その「嫌悪感」すら持つことがない。
外国人学生とはとことん付き合ったワタクシですが、障がい者とはそういう接点は持ってこなかった(次男は精神障碍者となったが……)ので、てんで付き合い方はわかりませんもんね。
あと、障がい者本人にとっても世間の冷たい風とか、世の中甘くないよなとか感じる経験もあってよい。
いずれ共生社会のその中で生きていかなくてはいけないから。
例えが良くないかもしれないけど、ワタクシが大学時代サークルの部長になった時、女性が男子のメンバーを束ねていくのに、どういうふうに指示を出せばいいのかとか結構自分なりに考えたことがあった。
例えばジェンダーの問題で、女性が男性の上に立つことはあまり例のない時代だと、いざそうなったらどういう行動をとればメンバーがついてくるのかとか考えていた、という例です。
今は確かに障がい者が上司になるとか指示を出す側になるとか考えられないかもしれないが、かつては女性もそんな立場だったのだと思えば、インクルーシブ教育の行先は、今よりもっと多様な社会であることは間違いない。
ある場面では障碍者がリーダーとなってクラスを引っ張る、とか、そういう場面を作っていくことが重要なんだと思う。リーダー向きの障がい者だってきっといる。
「どうすれば指示が通るか」などは本人が考えるだろうし、そうやって後進に道を作っていくのだと思います。
急激な変化は難しいでしょうけど、少しずつでも良い方向に向かって前進して行ってくれたら、と望んでいます。
仔羊おばさん