さて、小山田氏のニュースについて考えました。
このニュース、実はとても「深い」ということに気づきました。
ワタクシこと「仔羊おばさん」は、さくっと自分の意見を言えば、
過去に過ちを犯していても社会で活躍できる社会を構築したいです。
ですから、ワタクシがオリンピックサイドの人間なら、当氏が過去の過ちについて反省しているのなら、音楽を使用することについて問題はないと考えます。
ところが、テレビで様々な意見を聞くうち、いやこれはそんな単純な問題ではないし、ちょっとワタクシも一旦立ち止まってもう一度考えるべき問題なんだと思い至りました。
その理由は後述します。
ですので、やはり現時点で、当氏の辞任を受け入れるべきで、当氏の作曲した曲を、今日この時点で採用はできません。一周回って考える時間が必要です。
そもそも、過去の自分のいじめ行動について、たとえ「ロッキングオン」という音楽雑誌であっても、自慢げに語ることができていた時代があることを認識しましょう。
私が、今立ち止まる必要があると思ったのはそこにあるのです。
ワタクシなどは、森元会長の発言なども「どうせあの世代の方なんだから、そのぐらいのことは言うでしょうよ。そんなこと最初からわかってて頼んどいて、それで辞めさすってどういうこと?今これで辞めさせるなら、最初から頼むなや。ここまでやってきてあと少しなんやからこのままでええがな」という感覚なのです。
(今回の小山田さんの件も「なんで彼に頼んだんだ?だから委員会はだめなんだ」的な論調じゃありません?)
いや、しかし。
(´・ω・)
だから、いつまでもダメなんだよ。
ということにワタクシ、思いが至りました。
そう。ワタクシはマヒしているのです。
確かに、弱い者いじめはよくないけど、子供がそれをするときには、いじめる側にも同情すべき環境がある場合があります。それについて語るチャンスは与えてあげたいです。
ワタクシは、あくまで「過去に犯罪歴があっても更生して社会でやってける希望がある社会」を選択したいので。
だけど。
そう。雑誌に掲載できた時代があったのは、子供ってそういう「してはいけないことをしながら成長して、徐々に正しい選択を学んでいくものなのだから、子供時代の過ちや昔やったバカなこと」は許されてしかるべきなのです。私が育った時代はそういう考えでした。だから雑誌にそういう発言が掲載されていても回収もされず、世間からバッシングも浴びなかったのじゃないでしょうか?
でも。
そうやって許されてきた社会だから、未だにダメなんです、きっと。
ワタクシが育った時代だって、弱い者いじめをしていい、なんて教えた先生はいませんでした。
女性を蔑視してもいい、なんて教えた先生もいなかった。
どんな先生だって「戦後の憲法で自由と平等は守られてる」「自由で平等な社会を創ろう」と教えいた。
弱気を助け、強きをくじく
は、テレビのヒーローものの底流に流れてる精神だった。
みんな、正義を求めてる。
でも、世の中に出たら、これって正義?
(。´・ω・)?
って思うことがいっぱいある。
例えば、ワタクシの経験でいえば、ワーキングマザーの一人として「よーい、どん!」と同僚と走るレースに「正義」を感じることはほぼなかった。
平等でしょ?
同じ条件でしょ?
でも、現実は子供を育てながら独身や「夫」の立場で働いてる人との平等な競争に「平等」を感じたことはなかった。
そういう意味では、森元会長の発言にしっかりNoをつきつけ
小山田氏が過去にされたいじめにもNoをつきつけることは大事だ。
ただ、それでも最終的にワタクシは、例え過去にどんな過ちを犯していようが、犯罪を犯していようが、更生のチャンスが与えられる社会を望む。
反省することはもちろん必須。
「許せないことをしたから」といって一挙に社会の隅に追いやるようなことこそ
一種のいじめじゃないのか? と思うのだ。
ただ、今は一歩立ち止まって考えることが大切だ。
だから、ただ単に「許してあげればいいのに」と結論付けるのも単純に過ぎる。
そういう意味で、今回の辞任は受け入れるしかないと今日は思っている。
仔羊おばさん