生き辛い…
という言葉を見て、「なんでなんで?なんで今の日本で生きづらいなんて言うの?」
と思い、「ほな私自身、生きづらいって思ったことなかったけ?」と自問したら、やっぱ結構あったんです。
昨日はそのうちの「思春期」について書かせていただきました。
そうひどい親でもないのに、「自分の親、最低」と思うところから、その生きづらさは始まっていました。
つまり、視野狭窄(しやきょうさく)。
他の親と客観的に比べてみたら、そうひどくもないのに、世間知らずで視野が狭いためにそう思い込んだんですね。
今日、書くのは「生きづら」かったんじゃなくて「うわあ、食ってけない!」という、
経済危機
すなわち
低収入
にあえいだ経験でございます。
そもそも、「日本語教師」という職業に就きたい、と考えたのがコトの発端。
だけど、この仕事って一足飛びに専任教員として雇われるほど、甘い世界じゃなかったんですよね。
当時は不景気も深刻でしたし。
そんな中、非常勤講師として働くだけだと、月の収入は平均で13万ー15万円くらい。
そんなだと保険料払って年金払ってしてると、生活は成り立たないくらいの額。
で、夏休み冬休みはまるで留学生と同じく、他業種のバイト。
だけど学期中は、授業の準備もあるし、そうそうバイトもできない。
朝ごはんは、職場に行ったら置いてある、誰かからのおみやげのカステラ…
なんてこともよくありました。
私の知っている先生の中には、「学生が休み時間にくれるパン」(学生もバイト先からもらってきてたものとのことでした)が一食分、ていう人もいましたよ!
そういう「お金がない!」時代は、夢とやる気だけはあったけど、ほんと、暗かった!
「いつか食べていけるようになる」っていう希望がなかった。
思春期の生きづらさ、が「居場所のなさ」にあるとしたら、
おカネがない、低収入の生きづらさは
先行きの暗さ
といえます。
…仕事、変われば、いいじゃん…
って、ことなんですけどね…
世の中、そういう仕事を選ぶヤツもいて、この世は回っているのですよ。
あと、結婚したばっかりの頃も、超どビンボーでした。
主人はまだ大学院生。
私が稼いで食ってたけど、日本語学校が倒産、貿易の会社に就職したはよかったけど、結局向いていない仕事だったから、役立たずで、職場の人たちからも社長からも疎まれて、ほんと、辛かった。
軽々に仕事を辞めるわけにもいかなかった。
(私の双肩に生活かかってたもん)
そんな中、妊娠もしてたし。そんなだから、ものすごく嫌がられていました。
このことはまた後日に書きますが、当時の職場いじめ?(なにかと目の敵にされてました)もこたえました。
主人の就職活動はうまくいってない。
自分は、この会社に長くいることは考えられない(だって職場いじめに遭ってたんだから)けど、続けざるを得ない。
トイレで泣いたこと、あったな…。
ほんとに、先行きが見えない
というのも生きづらかった。
胸のふさがる経験でした。
お先真っ暗
って言葉がありますよね。
でも、なんか、信じるものもあって、そこに光を見出していたから、その時期を乗り切れました。
雲の上の太陽が見られるかどうか。
見ようと思えば、そこに太陽は見えるんだもの。
それを、見るかどうか。
ちょうど、会社の目と鼻の先に、かなり規模の大きいリハビリの専門病院がありました。
そこで、脳梗塞に倒れた方とかが、一生懸命歩く練習とかされてる姿を見てました。
帰り、会社のトイレには行きにくくて、よくその病院のトイレを借りたりしてました。
一人一人の患者さんの頑張り。
(; ・`д・´)
人は、どうなってもがんばることだけは、できる。
もしかしたら、もう私のようにすたすた歩けるようにはならないかもしれない。でも、そんな状態でも、前を向いて進もうとすることだけは、できる。
そんな患者さんたちの姿を見て、ちょっとだけその仕事を続けました。
でも、やっぱり続かなくて、結局は辞めました…。
とはいえ、今でもしんどいことがあると、その病院の周辺で訓練されてた方々の姿が目に浮かんできます。
今日のブログはなんか長くなっちゃいました。
でも、もしも50代まで生きてきた私の経験が、ちょっとでも励ましになればうれしいです。
好きな言葉:
雲の上には太陽
仔羊おばさん