50~60代女性の転職 from55life

長年のワーキングマザー経験から綴る今

その時40歳 失業中

 2002年6月14日…だそうです。日韓ワールドカップで日本代表が決勝トーナメント進出を決めたチュニジア戦が行われたのは。
 その試合の後、長居陸上競技場周辺は尋常じゃない盛り上がりだった…と、後でテレビで知りました。当時私は失業中。試合時間は、職安ことハローワークで紹介された「弥生会計」という会計ソフトの研修を受けていました。

 正直、失業中で月11万くらいの住宅ローンの支払いがあって、5歳、7歳の子供の子育て中の自分にとって、ワールドカップなんてどこか海外でやってるくらいの感じでした。少なくとも、世の中の人が楽しんでいることを、自分が楽しむという余裕はなかった。

 今日は、このブログには珍しく長くなります。そう、私の一つの「転職するまで」を書こうと思います。

 

1.転職までの経過

 なぜ失業していたのか

 勤めていた店が経営不振で社員(といっても3人)全員解雇となりました。業務内容は香港・台湾から音楽や映画のソフト、アイドル雑誌などを輸入し、通販と店舗で販売する、というものでした。

 バイトで残る、という道も示されましたが、私は家のローンもあるし、あくまで正社員を目指そうと思い、解雇を受け入れました。社員3人の会社ですから、経営不振を打開できなかったのは、自分の責任でもあります。販路を拡大するとか、ヒット商品を開拓するとか、そういうことができなかったワケで、解雇について、敗北感でいっぱいでした。

 無能社員が首になった…てことで。悲しいやら悔しいやら。

 ハローワークを通じ、種々の研修、教育を受ける

 毎日ハローワークに行ってました。失業保険の手続き、職探し、受けられる研修があれば受ける。

 「弥生会計」の1日講習もその中の一つでした。

 また、教育訓練給付制度を利用し、インテリアの学校にも通い始めていました。

 CADの3日間の講座も受けに行った覚えがあります。

 でも、結局、どれもモノになりませんでした。インテリアコーディネーターの試験はその後2年経って受験しました。1次は合格できましたが、2次で不合格。

 「弥生会計」はソフト以前に貸し方借り方を結局理解できなかった。

 CAD講習もパソコンと格闘、で終わりました。

 今思えば、この時点で自分の適性の分析が甘かった。私はインテリアの世界にできれば移りたかったのですが、業界の研究も足りてなかったと思います。

 車の免許も持ってなかったし、クライアントの方の時間に合わせた勤務時間になるのに、それもわかっていなかった。ただ「好き」ってだけでした。40にもなって、まったく子供でした。お恥ずかしい限りです。

 就職活動は困難を極める

 40歳、子持ち、ですよ。

 履歴書どんだけ返ってきたか。

 2,3日に1社くらい履歴書送って、面接にこぎつけたのってたぶん5つか6つくらいだったんじゃないかな。もちろんのように全て不採用でした。

 覚えている限りで言うと

 牛乳の配達をやっている会社。

 ソファーなどの修理や製作をやっている会社。

 コンピュータ関連の業務を請け負う会社。

 タイルの輸出入をやっている会社。

 碁盤の製作をやっている会社。

 ハローワークよりドーンセンター

 大阪には「ドーンセンター」という名前の施設があります。そこに「女性就労支援コーナー」がありました。今もあるようです。

 ハローワークの窓口でもアドバイスがもらえないことはありませんが、ドーンセンターのアドバイスが、その後のことを考えると最も的確でした。

 適性診断もそこでやってみたら、私は「文芸」の数値が高かったです。商売をあんなに何年もやったのに(8年ほど)、その数値は低くて意外でした。

 そのコーナーで相談したら、「日本語教師はどうでしょう?なかなか人気のある仕事ですが…」ともちかけられました。

 若い時に7年ほど日本語教師として働いた経験があったので、その経験を見てアドバイスをくださったんですね。

 私は、「ああ、その業界のことならよくわかります。非常勤ならクチがあると思いますが、正社員から、というのはないし希望しません」と言い放ちました。

 今思えばなんと不遜(^_^;)

 仕事なし。年齢でアウト。

 あーもー、どっこもないなあ。「とらばーゆ」という雑誌を見るようになりました。

 まずは、年齢でアウト。30~35までならなんとかありましたが、40以上では受けられるところがほとんどない。でも、雑誌でわかったことは、パートならなんかありそうということでした。正社員…と考えていましたが、もうお尻に火が付き始めていて、履歴書も返ってくるだけだし、面接に行っても会ってはくれるけど不採用、「能無し」って言われてる気がしました。

 どの会社にとっても私は「役立たず」。

 面接をいくつかはしてもらえましたが、自分でも、なんか「その仕事をばりばりできる自信」はなかった。即戦力ではなく、教えてもらってやっと指示されたことができる程度。ということは中年の子持ちを雇うメリットが企業側にはない。という「ものの道理」が今はよく見えます。でも、当時の自分にはそれが見えていませんでした。

 ただ、「だめ」が重なっていくうちに自信は音を立てて崩れていきました。

 もうしかたがない…

 「日本語講師募集」を見つける。

 それは、雑誌「とらばーゆ」で、アルバイト・パート。

 もう二度と戻る気のなかった業界でしたが、ともあれ電話をかけて履歴書を送りました。

 なんで戻る気がなかったかというと、日本語学校というところは学生に留学ビザが下りないと学生が来ません。このビザを下ろす下ろさないを法務省が握ってるわけで、日本語学校というところは、もろに政治に翻弄されるのです。最後に勤めていた日本語学校も、新しい学生にビザが下りずにつぶれました。それでCDや映画ソフト、アイドル雑誌の輸入・販売の業界に行ったわけです。

 国の都合で栄えたり衰退したりする業界ってどうですか?

 それがわかっているから、もううんざりでした。

 でも、もうそんな贅沢を言っている余裕は私にはありません。

 トントン拍子

 そっからはトントン拍子に決まりました。もともと私は専任の経験年数が結構あったのです。日本語学校を新規で立ち上げる時に、専任の経験年数のある講師を主任として据えないといけないのですが、その要件を満たす人が少ないのです。みんな私と一緒で若い時にこの業界にいても他業種に移っていくので当然です。

 まあ、とにかく以前の経歴が役立ちました。

 開校は翌年ということで採用になりました。

 雇用開始まで、ちょっと期間があいていました。とっても長い間教師として教えていなかったので、リハビリがいるなあ、ということで、非常勤で、とあるマンモス校に応募したら、それもトントン拍子に決まりました。

 採用試験の一環で、模擬授業とかやったのですが、なぜだかそれもすごくうまくいきました。

 心臓が口から飛び出るくらい緊張はしたものの、決まる時は決まるのですね。

 本当に不思議です。

 でも、ドーンセンターのアドバイスが一番的確だったということです…。さすが専門家。

 インテリアの勉強を続けながら非常勤として働くのは、かなりのハードスケジュールでしたが、結構頑張ることができました。不思議は続くもので、なんかうまくいきました。慣れないことも多くありましたが、学生とも楽しい時間を過ごすこともできたし、進学も順調でした。

 そして半年後、そのマンモス校で専任に雇ってもらえることになりました。まさかの、でしたが家族一同喜びました。その後14年にわたってそこで働きました。

 転職して今の学校にいるわけですが、日本語の業界に舞い戻るまでの経過は、ざっと以上です。

2.この経過からの教訓

 正社員を目指すにはまず「実績」

  今は人手不足ですからいきなりの正社員もあるのかもしれませんが、まずは経験のある業界や、あるいはパートやアルバイトとして実績を積んでから社員を目指す、というほうが近道の場合もある、というのが私の得た教訓です。

 専門家は知っている

  いやもう、何も言えません。専門家は本人より的確にアドバイスしてくれます。素直に耳を傾けて損はありません。

3.その後

 失業中に学んだことが役立った。

  2008年ごろから、留学生の進学を担当することになりました。

  インテリアや建築志望の学生、CADをやる学生とのやりとりで、当時の研修は本当に役に立ちました。何でもやってみるもんです。貸方借方も、モノにはなりませんでしたが、ちょっとした団体の会計監査、マンションの管理組合の監査、それなりに役立ちました。学んだことは無駄にはなりません。

 サッカーフリークに…

 インテリアの学校で出会った建築の先生がサッカーフリークだった。

 ちょうどワールドカップ期間中でした。こんな先生が夢中になるんだから、もしかしたら面白い競技なのかな…と思ったのがきっかけで、私もサッカーを見るようになりました。

 今では私が立派なサッカーフリークです。

 

 もうすぐまたワールドカップ。

 楽しみです。

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 仔羊

 

 

 

 

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